29/12/2013

市田喜一という父

不意に吹かれた時間切れの笛だった。
父方で唯一僕の連絡先を知っている同い年の従姉妹から報せがあり、癌が再発し自宅療養中の父があまりよくないとのこと。
すぐに帰国の準備をするも、急激な容態の変化に結局間に合わず、11月25日の朝、75歳で父は亡くなった。
母方の祖母と同じ命日だ。
その日のうちに日本へ発った。

来年2月、父はパリでの版画のグループ展が決まっており、そのためパリに来ることを非常に楽しみにしていたそうで、僕達夫婦も心待ちにしていた。
もしかしたら初めて何か親孝行のようなことが出来る機会かもしれないと、漠然と願っていたけれど…。

通夜・告別式ともにたくさんの人が駆けつけてくださり、映像業界や著名なアーティスト、俳優さんたちからの供花で溢れた。
父方の親戚と約二十年ぶりに再会を果たし、父の友人には子供の頃以来になる人もいた。
そして、この中で父のことをいちばんよく知らないのは自分であるように思えた。


僕が父と暮らしたのは生まれてから小学校に入るまでの6年間だけだ。
家族3人で写っている写真はこれしか残っていない。
family portrait

コマーシャルが最もクリエイティヴで元気だった時代。父・市田喜一は多い時で月間40本ものCMの美術を手がけていたそうだ。
それがどんなにクレイジーな仕事量かは、短い期間だけれど同じ仕事をしていたことがあるのでよくわかる。
あまり多くを語らない人だったけれど昔こんなことを言っていた。
「ムサ美の頃に映画が面白いと思ったら映画の仕事をするようになって、これからはコマーシャルが面白そうだと思ったらCFの仕事をするようになったんだよ。運が良かったんだろうね」
東宝撮影所で父が時代劇のセットに彫刻を彫っていたら、隣でおじさんが掘り始めたけれど他の場所と違ってしまったので叱ったら、それが黒澤明監督だったというエピソードを読んだのはコマーシャル・フォト誌の特集だっただろうか。
あと、そう数は多くない後年父から聞いた話で印象に残っているのは、撮影でニューヨークに行った時、シンディ・ローパーが自宅に招待してくれたけれど、言葉ができなくて残念だったという話。通訳したかったよ。
僕とは異なり体力頑健で、仕事以外にも常にものを創り続けており、たまに会うといつも何か面白そうなことをやっている父は、近いはずだけに余計に遠い存在でもあった。


生まれつき脚が悪かったため当時住んでいた世田谷区の小学校に入学を断られた僕は、文京区の小学校に通うため祖父母に預けられた。
やがてスタイリストとなった母も青山の事務所に移り、こうして家族3人が3箇所でそれぞれバラバラに暮らしていた頃、たまに垣間見る父の暮らしは子供の目にも孤独に見え、心のどこかで申し訳なく感じていた。

もっとも、父の職場サンクアールは家族的な会社だったし、寂しさなど感じる暇もないくらい忙しかったのは仕事人間の父にはちょうどよかったことだろう。
僕が11歳のとき追い打ちをかけるように交通事故に遭ったため、両親はバラバラになっていた暮らしをなんとか修復しようと努力してくれたけれど、結局その試みは失敗に終わった。
そしてその後、成長とともに父と会う頻度は減っていった。

僕がパリ留学から帰国して間もない頃だったか、社長に就任したと聞いたのでお祝いのつもりでドンペリを持って久しぶりに尋ねたことがあった。部屋には相変わらずたくさんのオブジェに混じってキョンキョンとのツーショット写真が。父は、
「俺、シャンパンは飲めないんだよ」
父のことをよく知らなくなっていた。


12年前、フランスに移住することが決まったので挨拶を兼ねて妻を初めて紹介するために数年ぶりに父に会いに行った。たしかパリへ発つ直前のことだ。すると、
「俺もヨメさんを紹介するよ」
と言って、女優の左時枝さんを紹介してくれた。
時枝さんも再婚で連れ子がいたので、血の繋がらない妹も!
お互いにヨメさんを紹介しあう父子の図は奇妙だけれど、久しぶりに楽しい再会だった。
帰り際、父はお土産にとピンクドンペリをくれた。
その後ピンクドンペリは引っ越しを経て12年もの間、母の冷蔵庫に保管されることになる。

母・いちだぱとらは父の再婚相手が昔から知っている時枝さんであることを喜んでいた。
一部では母が別れてくれなくて父が再婚できないと思われていたらしいが、僕が一人前になるまで、ということになっていた。一人前になるのが遅れて待たせてしまったかもしれないけれど。

結局、父とのぎこちない関係をなんとかしなくては、と長年思いながらついつい先延ばしにしてきたツケが回ってきたのだ。
ただ今年の1月末に会ったとき、父は激痩せしてはいたものの歩くことも食べることもできた。最後に見た姿がまだ元気な時で良かった。弱ってすっかり小さくなり痛みに耐える姿でなくて…。

父の晩年を支えてくれた時枝さんから、いろいろな話を聞かせてもらうことができた。
父は小学4年生になる時枝さんの孫のYくんの面倒をとてもよくみて可愛がっていたそうだ。
時枝さんいわく、父は僕にしてあげられなかったことを代りに彼にしているかのようだったという。
そのYくんも生まれつき脚が悪く、4才まで歩けなかったと聞いて驚いた。

僕の中で、家族がバラバラに崩壊したきっかけは、自分が不自由な身体に生まれたためだという思いがずっとあった。
けれども血は繋がっていない時枝さんの孫も脚が悪かったと聞いて、運命のようなものを感じずにはいられなかった。
愛情を注ぐ対象としてYくんが父の身近に居てくれたことが本当に有難い。


納棺の時、蓋を閉める直前に父の頬に触れてみた。
まだ柔らかく、けれどもとても冷たい。初めて涙が出た。
父に触れたのはいったいいつの頃以来だろう? 

こんなに大勢の人が集まり、別れを悲しんで見送ってくれるのだから、父の人生は悪くなかったように思う。みんなから好かれたし、新しい家族にも愛された。
数十年ぶりに会った幼なじみは、
「私の子供たちを孫のようにかわいがってくれて、本当にいい人だった」
と涙ながらに話してくれた。
僕は父とは何を話したらいいかわからなかったけれど、子供に好かれる人だった。
父も幼なじみの子を「俺の孫」と公言していたそうだし、たくさんの孫子同然の子供たちに囲まれていたから寂しくなかったに違いない。

なので、なんだか不思議な感じさえしてしまうのだけれど、血を受け継いだという意味では父の子は僕だけだ。
それに僕の画力は努力して得られたものではなく、100パーセント父と母からの遺伝によるものだ。
それだけで充分だし、感謝している。
だから、たとえ一緒に過ごした時間は短くても、いいんだ。


日本滞在の最後に、二十数年ぶりに父の故郷の秩父に行ってみた。子供の頃は毎年訪れた、懐かしい景色。
三人いる父の妹さんの家を師走の忙しい時期だというのに全て訪ねたのだけど、空白期間なんて無かったかのように温かく迎えてくれてとっても有難かった。
叔母夫婦の営んでいたお店を改造したギャラリーには父の作品が所狭しと展示されていて、その多作さに改めて驚くとともに、活かしているとは言い難い受け継いだはずのものをもっと役立てていかなくては、と反省し刺激を受けた。
さもないと、のんびり屋の僕はすぐにまた時間切れになってしまうから。

叶うなら父にはもう少し長生きして欲しかった。創りたいものをもっと創り続けて欲しかった。
けれども父は自由に生きたし、悔いはないんじゃないかな、と、今はそう思える。


9 Responses to “市田喜一という父”

  1. Masatoshi Mori 30/12/2013 at 6:35 PM

    ……R.I.P

  2. kyo 31/12/2013 at 2:32 AM

    Thanks, I hope he does.

  3. akiba-k in Tokyo(涼しい) / Sapporo(クソ蒸し暑い) 26/6/2014 at 6:51 PM

    良い写真だな。
    両親と(良くも悪くも)大人としての関係がある、と言うのは幸せなこと。

    誰も突っ込まないから、「あの大きな足は誰のっ!?」と書いてみる。
    足を遺して、残りは食われたのか、、、

    その昔、此処のどれかの記事に、なんか(Kyo君が体験した?)ムカツク事が書いてあって、それに何故か部外者のオイラが立腹して「殺人回路始動」って書いたのを思い出して、探してみようと、それで来てみた。
    見つからないけどorz
    書き込みして直ぐに、始動しなくてイイからっ!と、返事も貰った記憶。
    此処じゃ無かったのかな−。
    気長に探そう。

  4. Kyo ICHIDA 27/6/2014 at 1:31 PM

    ありがとう、足はオブジェってことで!
    ムカつくこと…コメント検索したけど見つからなかったんで此処じゃなかったのかも?
    そう言われると何だったのか気になるなぁ、記憶に霞がかかっています。

  5. akiba-k in Tokyo(涼しい) / Sapporo(クソ蒸し暑い) 27/6/2014 at 2:20 PM

    オブジェw
    そこにマジレスキター
    執拗に犯罪の痕跡を揉み消そうとする姿勢には共感が持てます、うん。

    さて、わざわざ検索して頂いたとは、お忙しいところ申し訳無い事です。
    mixiは、此処に直結しているから、独自のコメは無いはず。
    じゃあ、何処だろう?
    もしかしてFBだったのか?
    なんか、そんな気がしてきた。
    これまた長期戦で探すしか無さそうだな、、、。

  6. kyo 1/7/2014 at 3:42 AM

    よく憶えてないんだけれど、もしかして入試に関することかな??
    だとしたら顔本かも…?

  7. Kyo ICHIDA 1/7/2014 at 3:48 AM

    いや、それはツイッターだったかも…

  8. patra 2/9/2014 at 5:49 PM

    手前のオブジェの足は大きくみえるけれど市田さんの実際の足を型取りしたもの。
    当時実際のマスクを取る仕事が多く、残った石膏で取ったもの。
    私が貰ってタンスの前に置いておいたものです。

    黒く塗ったタンスが歩き出すみたいで面白かった。結局古い家に置いたまま、怖してしまったのでは?

  9. kyo 23/11/2014 at 11:02 PM

    そうだったね、懐かしい。