portrait

市田 享馴[いちだ きょうじゅん]

有限会社 アーベーセー・ジャポン 代表
デザイナー, infographiste[アンフォグラフィスト]
2001年からパリ在住

略歴

東京に生まれる。3才のときミオパチーの一種が遺伝していることが発覚
母が「連れて行くのが面倒」という理由で幼稚園は通うことなく、家で絵ばかり描いていた。そのためか社会性がなく育つ。
当時住んでいた世田谷区の小学校から入学を断られたため文京区の祖父母に預けられる

ぼんやりと小学校時代を過ごす。超落ちこぼれで空気も読めなかった。
小5の終わりに信号無視のトレーラーに轢かれ、全身15箇所以上骨折し生死の境をさまよう。手術7回、入院23ヵ月。この貴重な経験で生まれて初めて正気を取り戻す。あのときのトレーラーを運転していた人がもしもまだ自分を責めているとしたら、「もう気にしなくていいですよ」と伝えたい。

近所の不良中学にエレベーターがあったので入学。友人が車イスを押してくれて通学。この中学でドラムに出会う。学校帰りはよく秋葉原に行っていた。

高校には進学せず毎日バンドと絵に明け暮れる。その後大学入学資格検定取得。筋力は徐々に低下し始めていたが18歳になると同時に運転免許を取ったことで行動範囲が糸の切れた凧のように広がる。

名うての不良美大で大学生活を楽しむ。バンド多数かけもち。大学2年が終わった春休みに初めての海外旅行でヨーロッパへ。パリに辿り着き、ただの春休み旅行のはずが居残ってしまう。という訳で楽しかった不良美大は中退。パリ第4大学ソルボンヌに一応籍を置きつつ仲間たちとの貧乏生活を楽しむ。

2年後愛猫サヌフェリヤンとともに帰国後すぐ株式会社ウエストコートに入社し、数々のCFセットデザインやキャラクターデザインと格闘しながら眠る暇のない修行時代をおくる。非常に勉強になるも無茶な生活がたたり入院、ドクターストップ。同社を退社。さてこれからどうしたものかと途方にくれていた頃、CGによるプレゼンテーションに興味を持つようになり、Macintoshが(比較的)安くなったのでやっとのことでIIsiを購入。とはいえ当時24ビット・ビデオカードとコプロセッサ、モデム込で85万くらいした。CGやプログラミングの基礎を独学。

元同僚の紹介で環境造形の会社にCGによるプレゼンテーション技法をインストラクションする一方、いわゆるSOHOのはしりを開始。

バンド仲間が紹介してくれたコンペに勝ったことがきっかけで突然忙しくなる。ソフトウェアのデザインや3DCG、オープニングタイトル、キャラクターデザイン、ロゴデザイン、ウェブデザインを手がけるように。95年にこのホームページをオープン。インターネットワールドエキスポのモニタに選ばれる。このおかげで当時まだ珍しかった専用線を手にいれ、Linuxやサーバ管理の基礎に触れる。

97年に制作した某超有名美術館のプロジェクトが好評で、翌年続編制作のため10年振りのパリへ長期出張。この出張と仕事が後にたくさんの新たな出会いに恵まれるきっかけになる。

2000年に個人事務所を法人化、有限会社 アーベーセー・ジャポン 設立。仏ABC有限会社(S.A.R.L.)から株式会社(S.A.)へ。

2001年、人並みに結婚。フランスの友人に三顧の礼で誘われ活動の拠点をパリに移す。しかし911テロ、フランからユーロへの通貨切り替え、大統領選挙のトリプルパンチでフランス経済大停滞。到着早々からいきなり業績悪化、倒産の危機。

「ダメになったら東京に帰ればいい」というあまい考えがどこかにあったことを反省。制作した仏法務省の子供向けサイトがテレビに取材される等印象的なことも多数。

仏ABC、倒産の危機を脱出。しかしその4年後、フランスの会社は債務超過を避けて解散・休眠、円満な幕引きだったけれどやはり残念。少し休みたかったが日本人としては失業保険に抵抗があり、すぐにAuto-entrepreneur登録。

東日本大震災に矢も盾もたまらず仲間とチャリティーに取り組む。

普段は引きこもりだがポルトガルへ車で旅したり、写真家十文字美信先生とのいくつかの旅行など数々の大切な思い出を紡ぎながら、今日に至る。
そして今年の目標は健康家族。

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